上平 明 18回生
土方歳三は武蔵野国多摩郡石田村(東京都日野市石田)の出身で、新撰組創設以来のメンバーであり新撰組ナンバー2の副長であった。池田屋事件、蛤御門の変、鳥羽伏見の戦い、会津戦争と転戦し、幕末のあらゆる修羅場をくぐり抜け、旧幕府軍の榎本武揚らとともに箱館までやって来た。箱館では榎本総裁の下、陸軍奉行並みとなり、箱館市中取締まり等にあたっている。
明治2(1869)年5月11日、旧幕府軍に対する新政府の総攻撃が海上から始まった。七重浜沖から新政府軍の軍艦朝陽と丁卯が迫ってきたところ、旧幕府軍の軍艦蟠龍が放った一発が朝陽の火薬庫に命中、朝陽は轟音とともに沈んだ。土方は「この機、失すべからずと」大声をあげ5百名あまりで五稜郭から一本木関門(現若松町付近)へ向かって出撃したが、敵兵の銃弾を受け戦死した。
土方戦死の報を受けて、五稜郭から土方側近、馬丁、遺体引き渡しの使者、計7名が一本木へ急行し、土方の遺体を五稜郭へ持ち帰ったが、その後の行方が不明のままとなっている。
明治25年、土方の親戚の平忠次郎から土方の埋葬地についての調査依頼を受けた室蘭警察署警察官の加藤福太郎(土方と同郷)が土方歳三の死後について詳細な調査を行った。
加藤は、函館碧血会初代会長和田惟一、碧血碑墓守柳川熊吉等から聴取し、土方の遺体は七重村の閻魔堂(現函館市吉川町極楽寺)に土葬、その後火葬し明治12年改葬のときに碧血碑に納めたことが判明したと報告している。
しかし、最終埋葬地は上記の他、新撰組の屯所が置かれた称名寺の末寺である函館市神山町大圓寺、五稜郭公園内兵糧庫裏の土盛埋葬説等があるが、いずれも決定的な証拠がなく、今なお不明のままとなっている。
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